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zoom RSS 28年1月の京都らくらくウォーキング100選

<<   作成日時 : 2016/01/18 14:11   >>

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新しい年の初めのウォーキングです。

今回はサル寺と女性の神で正行寺・宗徳寺です。

今年は年明けからいい天気で気温も高くて冬らしい気候で無かったですが

今日のウォーキングも寒さは感じずいいウォーキングでした

月曜日から平年並みの寒い日が続きます

コースは四条烏丸西角に集合しスタート〜佛光寺〜上徳寺(よつぎ地蔵)〜正行院(さる寺)〜

京都駅(昼食休憩)〜;;宗徳寺(粟嶋堂)〜;本光寺後で解散でした。

参加者52名で楽しいウォークでした。


集合場所の四条烏丸です。
出発前の今日のコース説明です。
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佛光寺(ぶっこうじ)です。
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真宗佛光寺派の本山。1212年(建暦2)越後に流罪になっていた親鸞聖人が一時帰洛されたとき、高弟源海上人が山科に創建した寺院を起源とする。
7世了源上人のときに東山渋谷に寺基を移転する。
その時、ご本尊の阿弥陀如来像が盗難に遭うという事件が起こるが、時の天皇、後醍醐天皇の夢の中に盗難された阿弥陀如来像の瑞光が現れ、その光をたどってご本尊を取り戻すことができた。このことにより後醍醐天皇から「阿弥陀佛光寺」の寺号を賜ったという。
1586年(天正14)、豊臣秀吉公が方広寺建立のとき、代替地として現在地に寄進され移転する。
阿弥陀堂に安置する聖徳太子像は重要文化財に指定。
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上徳寺(じょうとくじ)です。
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「世継地蔵 (よつぎじぞう)」「京のよつぎさん」とも呼ばれている。
正式には、 塩竈山(えんそうざん)上徳寺という。
 本塩竈町にあり、山号も塩竃山という。
平安時代、この地には、源融の邸宅・六条河原院があり、塩焼の風情を愉しんだという。
1603年に徳川家康の娘、泰誉院とその生母上徳院の菩提を弔うために創建されたお寺です。
家康側室阿茶の局開基。墓地に阿茶の局の墓。天明、元治の大火で焼失、現在の本堂は明治期に永観堂祖師堂を移築。境内の世継地蔵に祈願すると良い世継が授かると、子授け、安産、息災祈願の人が絶えない。
上徳寺は平安貴族たちが詩歌管弦を楽しんだ平安京河原院です
有名な世継地蔵は江戸時代より安産と子授けで広く信仰を集めてきたそうです。
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正行院(しょうぎょういん)(さる寺)です。
此処は中に入れず門前で説明でした。
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開山円誉上人(明宝5年〜天正12年)(1496〜1584)が、北山の中川の里で念仏修行の時、猿に災難除けと仏縁結縁のために「南無阿弥陀仏」の御名号を書いたお守りを授けられ、そのお守りのお陰で猿が危難から救われたという故事から「災難さる」の猿寺と呼ばれるようになった。本殿には猿をひざに乗せた上人の座像がまつられている。寺内には他に八猿はじめ多くの猿の人形がある。
天文7年(1538)創建された浄土宗捨世派の古刹。
門前に輪形地蔵堂がある。竹田街道を行き来する牛馬車の通行を楽にするため車の下に敷かれた石を輪形の石と呼んでいたが、輪形地蔵はその石から堀り起こされた。
牛馬車の通行の苦難を助け安全を守られた「交通安全」の御利益があるといわれている。
また堂内には竹田街道の竹田口にもまつられ、旅人が道中の安泰を祈願した西国三十三箇所の観音様もまつられている。

京都駅付近で(昼食事休憩)です。
日曜日で座る場所も無くてやっと座れて
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宗徳寺行く途中に
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宗徳寺(そうとくじ)(粟嶋堂)です。
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当堂は、西山浄土宗に属する宗徳寺の一堂で、堂内に粟嶋明神を祀ることから粟嶋堂の名で知られている。  寺伝によれば、応永年間(1394〜1428)南慶和尚が紀伊国(和歌山県)淡嶋から粟嶋明神を勧請して上洛する際、当地あたりで急に御神体が重くなったので、神意としてここに祀ったのが起りといわれている。
以来、宗徳寺の鎮守社、粟嶋神社として祀られてきたが、明治時代の神仏分離により粟嶋堂と改められた。  
粟嶋明神は、古来より婦人の守護神とされ、婦人病平癒や安産祈願に御利益があるといわれ、当堂にも婦人の参拝者が絶えない。
与謝蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。
その時詠んだ句が、境内石碑に刻まれている。
また、当堂北の庭内にある石灯籠は、応永28年(1421)の刻名のある弥陀板碑(みだばんひ)が用いられている。
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本光寺(ほんこうじ)でゴールで解散です。
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新撰組「七条油小路の変」の伊東甲子太郎他三名殉難の地。
新撰組の参謀であった伊東甲子太郎が意見の相違から新撰組から脱党したため、慶応3年11月18日近藤勇の別宅からの帰途、新撰組の襲撃にあい、本光寺門前の門派石(題目石塔)によりかかり絶命した殉難の跡。
その後七条油小路の事件が起きた。
油小路事件の発生した場所。新撰組から独立した御陵衛士。
そのリーダーである伊東甲子太郎は慶応3(1867年)11月に新撰組の手により暗殺された。
伊東の遺体を回収しにきた腹心・藤堂平助も新選組から襲われ討死をした。
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解散後帰る途中に
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