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zoom RSS 2月の京都らくらくウォーキング100選

<<   作成日時 : 2016/02/21 17:18   >>

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❀桂南部の探索・桂南部を歩く❀

2月の京都らくらくウォーキング100選です。

前日は朝から一日中冷たい雨でしたが、今日は朝から晴れて、京都マラソンもありますし天気で良かったです。

今日の参加者は54名でした。

阪急桂駅西口に集合しスタートです。

阪急桂駅西口〜三ノ宮神社(大宮社)〜本願寺西山別院〜蓮生の塔〜

楠赤手拭稲荷大明神〜牛ヶ瀬春日神社〜桂川イオン(食事休憩)〜淳和天皇火葬塚で解散です。 

今日はコース予定外が二ヶ所ありました。  

  一部参考資料にて。


阪急桂駅西口で集合しスタートです。
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三ノ宮神社(大宮社)です。
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樫原地区の総鎮守で境内には、地名の樫の古木がある。スサノオノミコト、オオヤマグイ(山の神)、サカトケ(酒の神)の3柱をまつる。源頼光伝説の鬼の話が伝わる。拝殿の天井に「酒呑童子の鬼」と「禁門の変」の絵は有名、だるま商店の作品。神社の前には国指定の樫原廃寺跡公園がある。樫原は宿場町として栄え、この一帯は町並保存地区の指定がある。幕末の禁門の変の戦いで闘死した3柱の志士の墓、その足跡もあり散策すると約1時間あまりかかる。
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本願寺西山別院です。
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西山別院は、覚如上人が創建された久遠寺を引き継ぐものである。
覚如上人のご廟もある。
覚如上人は、法灯を親鸞聖人、その孫の如信上人と受け継がれまして、本願寺第三代である。また、親鸞聖人のひ孫に当たる。
宗祖のご廟の留守職(るすしき)としては、聖人の末娘・覚信尼さま、そのお子さまである覚恵に続いて第三代、さらにお寺としての本願寺という意味では、事実上の開創者ともいえる。
本堂は、本願寺の旧本堂である。
宝暦十年(1760)に現在の阿弥陀堂が建てられたために、そ れまでのみ堂がこちらへ移された。
平安時代、桓武天皇の発願により、伝教大師最澄は京都西山の地に「久遠寺」を創建しました。
恐らく800年前後のことと思われます。
この「久遠寺」が西山別院の前身となりますが、やがて廃れ長らく荒れていた模様です。
その寺基を、1314(正和3)年、本願寺第三代宗主覚如上人が復興されました。
以後「久遠寺」は浄土真宗「念仏の道場」となります。
覚如上人ご往生の後はご廟所がつくられ、「久遠寺」は本願寺歴代宗主兼帯所として大切にされてきました。
ところが室町期に入ると、応仁の乱が勃発。戦国時代には織田信長との抗争が起きるなど、本願寺に対する法難が相次ぎ、「久遠寺」は騒乱の最中再び荒廃していきました。
漸く再興の兆しが見え始めたのは、乱世が終焉を迎え、本願寺の寺基が堀川花屋町に定まり、東西本願寺の分立騒動も落ち着いた頃。
第十四代寂如上人先導のもと「久遠寺」の寺地は、徐々に整っていきます。
1756(宝暦6)年、第17代法如上人の時、本願寺旧本堂(阿弥陀堂)が、新たな本堂造営に伴い、西山の寺地に移築されました。
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蓮生の塔ですが住宅の一角に有りました。
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本廣寺(ほんこうじ)にあるこの塔は、千家流の茶人・川上不白(かわかみふはく)(1719〜1807)が、寛政9年(1797)、先祖の供養のために建立した一字一石経塚で、和歌山県の文化財に指定されています。
石碑の下には、法華経を一文字ずつ書き写した69,384個の小石が埋められているということです。
川上不白は、新宮の水野家の家臣の家に生まれ、京都の表千家如心斎のもとで茶道の修行を積みました。その後、江戸に出て千家流を広めた「江戸千家の流祖」として有名な人物です。

楠赤手拭稲荷大明神に行く途中。
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コース予定外で寄りました。
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楠赤手拭(くすのきあかてぬぐい)稲荷大明神ですが狭い場所でした。
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説明では鉄橋工事間多数の死傷者が続出、その霊を弔い今後の工事の無事を祈って、楠を植樹して楠赤手拭稲荷大明神を祀ったところ、死傷者も出ず工事も無事完成したと。
其の為国鉄時代には保線区の職員を中心に、毎年11月の24日にお火炊きもして赤手拭を祀って来たが、JRに
なってから、其れも無く成り今現在は近所の方が祀ると説明でした。

牛ヶ瀬春日神社です。
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西京区牛ヶ瀬、称讃寺の東隣に春日神社(かすがじんじゃ)はある
「牛ケ瀬の春日さん」「春日さん」と呼ばれている。
 祭神は本社に武甕槌神(たけみかづちのかみ)、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、天照大神(あまてらすおおかみ)、大山咋神(おおやまくいのかみ)。末社の四所神社(上の宮)に牛頭天王(素盞嗚命、すさのおのみこと)、稲荷神社(下の宮)に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る。
 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、831年、三宮神社は、埜門麿(門森麻呂とも)の勧請によるといわれる。国乱平治し、五穀成就守護の神として祀られたものという。
 室町時代、1427年、10月(旧暦)、三宮神社は類焼により本殿が焼失する。仮殿に遷座した。
応仁・文明の乱(1467-1477)で、春日神社は西軍総大将・山名宗全(1404-1473)が戦勝祈念し祀ったものともいう。
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桂川イオンで食事休憩です。
  新鮮海鮮丼食べました、美味しかったです(^^♪
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淳和天皇火葬塚に行く途中です、少し風が有りましたが気持ち良かったです。
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淳和(じゅんな)天皇火葬塚です、此処も狭い所で全員入れず、柵からはおまけに中に入れず。
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桓武天皇の第三皇子である淳和天皇は、承和7年(西暦840年)に55歳で死去し、遺言により火葬にして京都市大原野の西山に散骨されました。
ここは、天皇を火葬した場所とされています。
 淳和天皇は、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、母は藤原百川の娘旅子です。
兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し、嵯峨天皇の第1皇子の仁明天皇に皇位を譲りました。
在位中は、政治改革を行うとともに「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成を行いました。
承和7年(840)に55歳で死去。
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此処も今日のコース予定外でした、物集女車塚古墳です。
説明では、今を去ること約200年前、江戸幕府が歴代の天皇御陵を定めるため調査を行った時は、淳和天皇の
陵の候補でありました。
しかし、文久年間(1860)の調査で、淳和天皇陵では無かった事が判明しましたが、地元では「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられて来ました、あくまで「言い伝え」で有りますと説明でした。
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見学して解散の阪急電車東向日駅で解散ですが、此処で終わって解散しました。

      最後まで見て頂いて有難う御座います。





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