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zoom RSS 4月の京都らくらくウォーキング100選

<<   作成日時 : 2016/04/17 20:04   >>

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熊本県に大きな地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。

桜の花も散り、葉も緑に成って来ました

集合場所では雨が降ったり止んだりでしたが

スタート時点では雨も止んで良かったです

今回の参加者37名でした。

4月の京都らくらくウォーキング100選に行ってきました。

今回は洛北の古刹・円通寺・補陀洛寺です。

地下鉄国際会館駅三番出入り口に集合しスタートです。

国際会館駅スタート〜円通寺〜幡枝八幡・針神社〜妙満寺(昼食休憩)〜補陀洛寺〜叡電市原駅・

解散です。

一部資料にて。

国際会館駅です。
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圓通寺に行く途中です
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圓通寺(えんつうじ)です。
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此処は拝観していません。
後水尾上皇の幡枝離宮のあとに、1678年(延宝6)、霊元天皇の乳母円光院文英尼公が妙心寺第10世の景川宗隆禅師(けいせんそうりゅう)を勧請し創建。本尊の聖観世音菩薩は定朝の作と伝える。
青苔におおわれた枯山水の平庭は、周囲にサザンカなど50種類の生垣をめぐらし、杉・ヒノキの木立を通し比叡山を望む借景式庭園。
元は後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、後述する枯山水庭園もその頃に造営されたものである。修学院離宮の造営に伴い、幡枝山荘は近衛家に譲渡された。後の延宝6年(1678年)、霊元天皇の乳母であった圓光院殿瑞雲文英尼大師が開基となって寺に改め、皇室の祈願所となった。
妙心寺10世の景川宗隆を勧請開山としている。
上皇は最も比叡山の眺望に優れた地を求めて、この幡枝に山荘を設けたといわれている。
枯山水式の庭園で国の名勝に指定されている。

幡枝八幡(はたえだ)・針神社です。
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応神天皇、神功皇后を祀る。
894年(寛平6)の創祀で旧幡枝村の産土神。
社名は石清水八幡宮から枝分かれした分社、の意とされる。
鎮座地の南麓には「石清水」と呼ばれる清泉が湧き出で、桃山時代の名工、堀川国広は当社に祈願し、石清水の水を用いて名刀を鍛えたと伝えられている。境内摂社として高おかみの神を祀る貴船神社あり、他に末社として四社・十社の社や針神社などの拝殿が立ち並ぶ。
古来の幡枝村の産土神で創建は遣唐使が廃止された寛平6年(894年)に朝鮮半島の新羅が攻めてくるという噂があり、皇都人民の守護のためにこの地に鎮座せよと八幡神の神託が降りたという。
その里人が朝廷に奏上して創建された。
15ある末社の内、針神社だけは専用の参道を持ち、金属の神、金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀り、刀剣、金物、針の業界の信仰を集めている。
   きつい階段でした、数えたら約200段ありましたね
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妙満寺に行く途中です
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妙満寺(みょうまんじ)、昼食休憩です。
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顕本法華宗の総本山。康応元年(1389)日什上人により、六条坊門室町(現在の、烏丸五条あたり)に創建。度々の兵火にあい市内各地を移転。
昭和43年に寺町二条から岩倉の地に移転。
境内には仏舎利を納めたインドブッダガヤ大塔を模した仏舎利塔がそびえる。
展示室には、娘道成寺で有名な安珍清姫ゆかりの鐘が安置されている。
妙満寺を創建した日什大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまでなった人でした。
故郷の会津で日蓮大聖人の教えに触れられると、67才という高齢にもかかわらず宗を改め日什と名乗り、日蓮門下に入られました。
そして、日什上人は日蓮大聖人の遺志である帝都弘通を想い、御歳68の老体をかえりみず都に上がり、時の帝・後円融天皇に上奏。
妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し興隆してきましたが、天文5年(1536)、比叡山の僧徒による焼き討ちで二十一坊の大伽藍を類焼。
一時は泉州堺に逃れ、天文11年に元の地に復興したという苦難の時代もありました。
そして、天正11年(1583)豊臣秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきました。
.現在の岩倉の地に移り今日に至ります。
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食事休憩でした。
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妙満寺の仏舎利大塔です。
全世界の仏教徒にとって最高の聖地であり、全人類にとってもかけがいのないものとしてユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
 この塔の最上階には当山に古くから伝わる仏舎利をおさめ、一階に日蓮聖人の顕されたご本尊と久遠本仏釈迦牟尼仏のご尊像をおまつりしています。またこの塔は全国檀信徒の納骨室にもなっており、豊田佐吉翁以来の豊田家一門を始めとする多くの篤信者の遺骨が安置されています
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安珍・清姫伝説の鐘
此処は拝観していません
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1359年(正平14)3月11日、道成寺では安珍、清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し、鐘供養を盛大に営みました。その席に一人の白拍子が現われ、呪力で鐘を落下させると、蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めました。
後に、その話を聞いた「秀吉根来攻め」の大将・仙石権兵衛が掘り起こし、京都に運び込み、妙満寺に納めました。鐘は供養で恐念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となりました。道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈ります。
.二代目の安珍・清姫の鐘が安置されていることでも有名で、芸道成就を願う多くの芸能関係者がお参りに訪れます。
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 補陀洛寺に行く地途中です
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補陀洛寺(ふだらくじ)(通称小町寺)です。
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創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、945年、959年とも、清原深養父(きよはら の ふかやぶ)が建立し、開山は天台僧・延昌(えんしょう)という本尊・千手観音の霊場として知られた。
寺地は、静原の里の北東、半里の山麓、江文峠と静原の間、また、江文峠の西の谷上だったともいう。
寺には小町についての伝承が残る。
小町の父・出羽守小野良貞の邸宅がかつてこの地にあった。父没後、宮仕えを退いた小町のもとに、恋心を抱いた深草少将が百夜通を始める。
小町もその来訪を毎夜数えて心待ちにしていた。
だが、成就する前日に、少将と父は、父の旧罪(御所への放火の咎)により伊豆へ配流されその地で亡くなる。
小町は少将への操をたて菩提を弔いこの地で果てた。
西行がこの地を訪れた時、小町の髑髏からはススキが生え、亡霊は「秋風の吹くにつけてもあなめあなめの小野とはいはじ芒生ひたり」と詠んだ。
僧が女に名を聞くと、洛北市原野に住む小野小町とほのめかす。
僧は女が小町の霊であると見抜き、市原野に出向いた。小町の霊が現れ、僧が霊を祓いたいと言うと、小町の霊はそれを願う。だが、生前の小町を愛した深草少将の霊も現れ、これを妨げようとする。
僧は両人に懺悔を勧めた。
二人は百夜通いの物語りを再現し始める。
僧侶は小野小町の幽霊だと確信し、その成仏を祈ります。
すると今度はものすごい血相で成仏祈願を邪魔する者が現れます。
僧侶はこの者は深草少将だろうと思い、小野小町の元へと
通った「百夜通」の様子を尋ねます。
すると幽霊は「百夜通」の様子を語り、そして小野小町、深草少将の幽霊共に成仏
したと云う筋立てになっています。
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叡電市原駅です。
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            最後まで見て頂いてありがとう御座いました。






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