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zoom RSS 第117回NPO京都らくらくウォーキング200選

<<   作成日時 : 2018/05/20 17:02   >>

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毎月第三日曜日のNPO京都らくらくウォーキング200選です。

今回は方広寺・今熊野観音・泉涌寺です。

コースは京阪七条駅集合しスタート〜方広寺・豊国神社〜新日吉神社〜

今熊野観音寺(昼食休憩)〜泉涌寺〜即成院〜東山泉涌寺参道で解散です。

今日は素晴らしいいい天気で、参加者も44名で楽しい一日に成りました。

一部参考資料にて。

京阪七条駅です。             
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駅前鴨川です。
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今日のコース説明です。
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方広寺・豊国神社行く途中に耳塚です、豊臣秀吉が朝鮮半島を侵攻した際の犠牲者の耳や鼻を埋めたとされる
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方広寺・豊国神社(ほうこうじ・とよくにじんじゃ)です。
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梵鐘を製作した三条釜座鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年に製作されました。
大仏殿及び大仏は1798年の落雷により大仏、大仏殿ともに焼失しています。
従って本遺物は豊臣家建立の寺院として東山に偉容を誇った方広寺大仏殿のありし日の姿を伝えています。
釣鐘は有名で、奈良の東大寺・知恩院・方広寺と日本三釣鐘(重要文化財)に指定されています。
江戸時代、神田の八丁堀に弥次郎兵衛と喜多八という二人の男がいました。
供に怠け者で愉快な独り者。
ある日、弥次さんが喜多さんに旅に出ようかと持ちかけます。一生一度の思い出に、伊勢から京都、大阪見物としゃれようじゃないか。
家財を売り払って旅行資金を作り、日本橋から東海道五十三次の旅に出かけました。
道中で泥棒に遭うなどしましたが、伊勢から京の都へたどり着いた二人。
華やかな装いの女性に目を奪われながら歩いていると山門の上からのぞく大仏像を見つけ御堂へ入って行きました。中には金箔で美しく彩色された高さ19mの大仏がありました。
豊臣秀吉が奈良の大仏に負けない大仏を造らせたとされ、二人は「手のひらに畳が八畳敷ける」「鼻の穴から傘をさして出られる」と驚きました。
さらに穴の開いている御堂の柱を見つけ、弥次さんがくぐり抜けようと試みるが、脇差しのつばがつっかえて抜けなくなってしまいました。
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豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ほうこく神社」の名で親しまれています。
慶長3年(1598)に63才で秀吉の死去の翌年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。
後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
しかし、元和元年(1615)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、神体は新日吉神社にひそかに移し祀られ
豪壮絢爛な門構えです。
豊国神社再建時に金地院から移築されたといわれていますが、もとは伏見城にあったともいわれています。
総けやき造りで、極彩色の彫刻と金箔で飾られていたそうですが、今もその面影を彷彿とさせるものがあります。
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説明して居られましたが跡は無かったです。
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新日吉神社(しんひよしじんじゃ)です。
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京都市東山区の東山七条付近は、妙法院、三十三間堂(妙法院蓮華王院)、法住寺、後白河天皇法住寺陵、新熊野神社等、平安時代の後白河上皇ゆかりの史跡の多い地域ですが、今回採り上げた東山区妙法院前側町にある新日吉神宮(いまひえじんぐう しんひよしじんぐう)も後白河上皇によって創建された神社です。
この地域には、その後、安土桃山時代に豊国社、方広寺、祥雲禅寺(秀吉が、夭折した我が子・捨君(鶴松)の供養のために建立した寺院)、豊国廟、耳塚等の豊臣秀吉ゆかりの史跡が建造されますが、豊臣氏滅亡後に徳川氏によって豊国社と豊国廟は破却され、豊国社と祥雲禅寺の土地は、徳川氏が援助建立させた智積院に寄進されました。
しかし、明治になると、豊国社(現・豊国神社)と豊国廟が再建され、耳塚の修復も行われました。
新日吉神宮は、この歴史の変遷に翻弄されてきた地域の生き証人のような神社といえます。
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今熊野観音に行く途中です。
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今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)です。
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弘法大師が開創、ぼけ封じにご利益ある頭の観音さん
弘法大師空海が開創し平安末期後白河上皇が熊野権現を勧請し新熊野社を創建した際現在名に。
頭痛、智恵授け、ぼけ封じなど頭の観音さんとして信仰厚く五智水や枕宝布の授与品。
西国三十三所観音霊場第十五番札所で京都七福神巡りの恵比須。
山の緑が美しく鳥居橋、子護大師像、大師堂を中心に紅葉の名所
今熊野観音寺について
1200年程前の京都、弘法大師・空海は唐からの帰国後に東寺で修業をしていました。
その時、東山に綺麗な光が見え、不思議に思った空海は、光の指すほうへ向かいました。
すると、白髪の老翁が現れ、空海に一寸八分の十一面観世音菩薩と宝印を与え、その場を立ち去ろうとしました。
空海はその老翁に何者かと尋ねると、「私は熊野権現(くまのごんげん)で、この地の守護神となるだろう」と告げ、姿を消しました。
空海は熊野権現のお告げを受け、お堂を建立し、自ら一尺八寸の十一面観世音菩薩を彫り、その体内に熊野権現から授かった観世音を納め、ご本尊として安置したことが今熊野観音寺の始まりとされています。
頭痛封じ・ぼけ封じのご利益
今熊野観音寺は、「頭の観音様」として、頭痛封じ・ぼけ封じのご利益を授かることで有名です。
後白河法皇(1127〜1192年)は、熊野権現の信仰が篤く、ここ京都・今熊野の地にも熊野権現を勧請され、ご本尊の十一面観世音菩薩を本地仏と定め、「新那智山」の山号を与えられました。
後白河法皇は持病の頭痛が激しく、そこでご本尊の十一面観音様に頭痛平癒の祈願を行いました。
ある夜、就寝中の後白河法皇の枕元に観音様が現れ、後白河法皇の頭に向けて光明を指されたのだとか。すると、たちまち後白河法皇の頭痛が治ったと伝えられています。
観世音のご利益に喜んだ後白河法皇は、頭痛封じをはじめとする、ぼけ封じ・智慧授かり・学業成就など頭全般にご利益を授けてくださる「頭の神様」として世に広められました。
このお話は、『後白河法皇頭痛封じ霊験記』としてここ今熊野観音寺に残され、今日でも頭のご利益を授かりに多くの方がここに訪れます。
また、こちらには「枕宝布(枕カバー)」の授与品があります。
普段使用している枕に付けたり、中に入れることで、頭のご利益を授かるといわれています。
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食事休憩後の次行く場所のコース説明中です。
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泉涌寺(せんにゅうじ)ですが拝観料が要りますので横通って次の即成院に行きました。
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即成院(そくじょういん)です。
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泉涌寺塔頭。寛治年間(1087-94)に、藤原頼通の子橘俊綱が、伏見山に営んでいた山荘に、阿弥陀如来ならびに二十五菩薩像(重文)を安置し、即成就院と称したのが始まり。
1902年(明治35)現在地に移転した。
那須与一ゆかりの寺として知られ、本堂裏に墓がある。
また10月第3日曜に行われる二十五菩薩お練り供養が有名。
建立:平安時代後期
弘法大師が建立した泉涌寺の塔頭・即成院の本堂には、平安時代の仏師・定朝作の大きな「阿弥陀如来坐像(本尊)」と二十五体の菩薩像があります(寺伝では恵心僧都作とも言われています)。
二十五菩薩の「観世音菩薩坐像」と「大自在菩薩坐像」、二十五菩薩には入らないがそれに匹敵するくらい美しい「如意輪観音菩薩坐像」は、本尊と同様に重要文化財に指定されています。
阿弥陀如来と総勢25体の菩薩様が並ぶ姿は圧巻で、「仏像のオーケストラ」とも称されています。
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即成院後解散しました。  
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           最後までありがとう御座いました。

    次回は6月17日第3日曜日です、奈良西大寺から平城宮〜唐招提寺〜薬師寺と歩きます。

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