第114回京都らくらくウォーキング200選

3ヶ月振りの京都らくらく会ウォーキング参加して来ました。

今回は「明智と大石」明智藪・明智胴塚・岩屋寺・大石神社です。

今年は寒いし雪が良く降るし日本海側・北陸・北日本・北海道の大雪で通学・通勤交通機関大変の様ですね。

災害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。

京都は雪積もる事も無く今日はいい天気でウォーキング出来ました、京都マラソンもありました。

京都市地下鉄石田駅集合し~明智藪~明智胴塚~醍醐バスターミナル(食事休憩)~岩屋寺~大石神社です

今日の参加者は54名でした。          一部参考資料にて

地下鉄石田駅です。   
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本日のコース説明後出発です。
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明智藪行く途中です。
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明智藪だいご(あけちやぶ)ですが今は住宅が建ち並んで分かりずらいです。
天正10年(1582)6月13日。
本能寺の変で織田信長を倒したその11日後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、なおも勝竜寺城に籠って抵抗しますが利あらず。
その夜、雨と夜陰にまぎれて城を脱出し、琵琶湖のほとりに建つ彼の本拠地・坂本城を目指しました。
が、その途中、山科または醍醐のあたりで落武者狩りに遭い、落命しました。
通説による光秀最期の場面は、落武者狩りの一揆が藪の中から繰り出した槍に脇腹を突かれた、というものです。
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少し文字が見ずらいです
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明智胴塚行く途中です。
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明智胴塚(あけちどうつか)です。
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明智藪」から直線距離で約2km北東には「明智光秀之塚」があります。
ここは、実は明智光秀の胴体を埋めた「胴塚」とされている場所なのです。
「明智藪」で自刃した光秀の首は秀吉の元へ届けられたとも、坂本城へ持ち帰られたとも言われています。
しかし、胴体の部分はこの地に埋められたとされています。
「胴塚」は民家の敷地内にあり、街道沿いからははっきりと見えないです。
伏見区小栗栖で竹槍に刺された光秀は、馬に乗ったまま山科区勧修寺まで逃れたが、そこで力尽き馬から落ちた。
この石標は,この地に明智光秀の遺体(胴体)が埋葬されたと伝えられることを示しています。
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醍醐バスターミナル公園での食事休憩場所に行く途中です。
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醍醐(だいご)バスターミナル(食事休憩)ですが向かえのスーパーで食事しました。
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食後次の場所行くのに説明中゜です。
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次の場所行く途中です。
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梅ですが未だつぼみです。
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岩屋寺(いわやじ)です。
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当寺は従来天台宗に属し、比叡山三千坊の一にして、山号を神遊山と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、むかしは山科神社の神宮寺であったと伝えられる。  
本堂に安置する本尊不動明王は智証(ちしょう)大師の作と伝え、大石良雄(よしお)の念持仏であったという。  本堂の下段境内に大石良雄の遺髪塚及び宅址がある。
赤穂城明渡しの後、彼はここにかくれてひそかに討入りの謀をめぐらしたが、事成ってのち、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。
その後、当寺は荒廃したが、嘉永年間(1848~1854)に堅譲(けんじょう)尼が京都町奉行浅野長祚(ながとし)等の寄付をうけて再興した。  
境内には本堂・毘沙門堂のほか、明治34年(1901)に建立された木像堂があり、堂内に浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公の位牌(いはい)及び大石良雄の遺品、他に47士の位牌木像を安置する。  
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大石神社(おおいしじんじゃ)でゴール解散です。
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この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。
大石の山科旧居は神社の付近にあった。
大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。
閑静で人目につきにくく、この地でしばしば同志の会合を開いた。
はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。
しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集った。
大石は、同年5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。
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大石神社解散後です。
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          最後までありがとう御座いました。