第120回NPO京都らくらくウオーキング200選

8月のウォーキングはお休みで9月に成り少しは暑さも落ち着き、夏の大雨、台風、北海道地震

などで被災されました皆様にお見舞い申し上げます。

二ヶ月振りのウォーキングで参加者も(55名)沢山来られて、天気は曇りで途中に晴れ間もありいい

ウォーキングの1日でした。      一部資料にて。


今回は陰陽師と嵯峨です

コースはJR嵯峨嵐山駅前集合~安部清明墓所~車折神社~油掛地蔵~遍照寺~広沢の池~大覚寺で解散で

す。


次回開催日は10月21日毎月第三日曜日で場所は京都新聞朝刊(木・金曜日)まちかど欄にも載ってい

ます 伏見の南浜と港で「南浜・長建寺~港公園」です、参加なさる方は前日予約又は当日でも参加できます

参加者は事前に電話でもいいです090-2066-5943で当日でも受け付けしています、

JR嵯峨嵐山駅前し集合です。
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安部清明墓所(あべせいめいはかしょ)です。
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稀代の陰陽師・安倍晴明の墓は複数ある。
その力を利用されるのを恐れたために、本当の墓所がどこか判らないようにさせるのが目的だったとも言われている。
しかし、さすがに現在はそのような負の利用を考える者もいないのか、“公式”の墓所が定められている。
 場所は京都でも有数の観光地である嵐山。渡月橋から大堰川沿いに三条通を行き、小さな川の流れる小道へ折れ曲がる。
ここまで来ると、観光地とは目と鼻の先だが、全く喧噪というものを感じなくなる。
さらにその小道を奥へ行くと、長慶天皇陵の脇に墓所が見える(ちなみにこの長慶天皇であるが、安倍晴明とは全く関係のない、室町時代初期、南朝第3代の天皇である。
しかもこの陵は昭和19年に長慶天皇ゆかりの天竜寺塔頭跡地にできたものです。
従って陵よりも墓所の方が先にあったと考えられる。
実際、この墓所は“晴明塚”として中世よりあったとされている。
 もともとこの土地は天竜寺の所領であったそうで、多分晴明の墓所も天竜寺の塔頭の1つにあったものと思われる。
しかし、年月が経ち荒廃が進んだために、最終的にこの土地を晴明神社が譲り受けて“公式”の墓所と定めたのです。
墓所に刻まれた年を見ると、昭和47年(1972年)のことのようである、かなり新しいです。
京都の安倍晴明墓所は、
嵐山以外にも、五条河原の中州や鳥羽街道の竹藪も伝承されていたが、この2つの遺跡は全く痕跡もなくなっている。
京都に残されたのはこの嵐山の墓所だけです。
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車折神社(くるまざきじんじゃ)です。
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嵐山にある、芸能人がよく訪れる神社です。
ここには芸能にゆかりのある場所が境内にあります。
京福電鉄「車折神社」駅前を下車し、学業・金運・良縁など様々なご利益のある車折神社です。

車折神社は、平安時代後期に実在した儒学者の清原頼業(きよはらよりなり)公をご祭神としておまつりしています。
そもそも、頼業公の菩提を弔うために建てられた廟(びょう)がこの神社の前身だといわれています。
また、生前に頼業公が桜の木を愛でていたことから、廟の周りにたくさんの桜の木が植えられ、春になると桜の花が咲き乱れることから「桜の宮」と称されていました。
「桜の宮」が、なぜ車折神社と呼ばれるようになったのか。
鎌倉時代に後嵯峨天皇が牛車で嵐山を訪れた時に、神社の前で牛車の轅(ながえ:牛車をひっぱる部分)が折れてしまい。
天皇はご祭神に気付かず前を通った非礼を詫び、「車折大明神」の号と正一位を贈られたことから車折神社と呼ばれるようになったといわれています。
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次の油掛地蔵へ行く途中です。
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油掛地蔵(あぶらかけじぞう)です。
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江戸時代には、油商人がこの前を通る際には必ず油を掛けていたという記録が残っているのですが、それよりももっと以前の1310年(延慶3年)に平重行という人物(鎌倉時代に仏像の修理などをしていた信者)によって安置されたものであることが判明しています。
地蔵だと言われていたけど「大日如来」だと地元では思ってましたからの(調査で)「阿弥陀如来」だと判明。
という経緯になっています。
ちなみに「大日如来=真言宗」で「阿弥陀如来=浄土宗、浄土真宗」です。
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遍照寺(へんじょうじ)ですが素通りです。
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989年、寛平法皇(宇多天皇)の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたのが遍照寺の始まりです。
嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島がありました。
池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院でしたが、寛朝僧正没後次第に衰退。
鎌倉時代、後宇多天皇により復興されましたが後に応仁の乱で廃墟と化しました。
奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は草堂に移され、文政13年舜乗律師により復興されました。
創建期の遍照寺は華やかなものだったらしい。
10世紀後半、宇多法皇の孫である寛朝(かんちょう)僧正が創建した真言宗寺院で、当時は広沢池を庭としていたというから、さぞや広大な伽藍であったのだろう。
空海から数代ののち、真言宗の法流は野沢(やたく)二流に分かれる。
この二流は後代十二流、さらに三十六流へと分派していくが、もととなった「野沢」は小野流と広沢流のことで、その広沢流とは広沢池の遍照寺からとった名称である。
このことから、真言宗の歴史の中でも大きな意味をもつお寺であるということができる。
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広沢の池(ひろさわのいけ)で昼の食事休憩でした。。
嵯峨野にあります。
平安時代からあったとされる、
この池は宇多天皇の孫、寛朝(かんちょう)僧正が、永祚元年(989)ここに遍照寺を建立したときに造られたものと伝えられるが、一説にはこの付近一帯の用水池として掘られたものともいわれる。
池のほとりに釣殿・月見堂などを設けた美しい風景を前にした大寺であったが、早く荒廃し、
この池は、古くより月の名所として有名で、多くの歌人によって数多くの歌が詠まれている。  
いにしへの人は汀に影たえて  月のみ澄める広沢の池  源三位頼政  あれにける宿とて月はかわらねど  昔の影はなほぞこひしき 薩摩守平忠度(たいらのだたのり)  また、池の南堤は桜の名所として 西方の大沢池と並び称せられる。
広沢池から嵯峨野までの道は「千代の古道」と呼ばれていて、畑の中をくねくねと進んでいくような道です。この道も開放感があって人が殆どいなくて散歩道にうってつけ。
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次の大覚寺に行く途中です。
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大覚寺(だいかくじ)です。
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真言宗大覚寺派の歴史は、大覚寺の開創に始まる。
嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院で、空海が五大明王を彫刻して五覚院を建てた。
疫病流行の際には、嵯峨天皇宸筆の般若心経を講読して、心経堂に納入した。
876年(貞観18年)淳和天皇皇后正子内親王の令旨により開創され、淳和天皇第二皇子恒寂入道親王が賜り、入寺して、大覚寺の伽藍を整備した。
918年(延喜18年)、宇多天皇が大覚寺で両部灌頂を受け、1268年(文永5年)には後嵯峨天皇が入寺、21世門跡に就任、続いて、亀山天皇も入寺し、22世門跡になった。
1307年(徳治2年)~1321年(元亨元年)、後宇多天皇は院政を行い、大覚寺塔頭・蓮華峯寺を仙洞御所とした。このとき、諸堂を整備したため、後宇多法皇を中興の祖と称する。
こうした経緯から南朝系の大覚寺統の天皇とゆかりがある。1336年(建武3年)全焼。1392年(元中9年)、南北朝の動乱を経て、南北朝和議の場として使用された。
応仁の乱では全焼したが、豊臣氏・徳川氏の保護もあり、伽藍を再建し、門跡寺院として繁栄したが、江戸時代末期に衰退した。明治時代の始めには無住となったが、47世門跡・楠玉諦、48世門跡・高幡龍暢らの尽力で復興した。
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残念ながら大覚寺の建物は台風の爪痕ひどく中へ入る事は出来ませんでした。




        最後までありがとうございました。