第123回NPO京都らくらくウォーキング200選 都の繁華街

今年最後の京都らくらくウォーキングです

早いものです12月と成ると何と無くせわしない感じがします、その中でのウォーキングでしたが

天気心配していましたが雨降らず楽しく行ってきました。

     参加者43名でした。            参考資料にて


今回はウォーキング終わったら忘年会で繁華街周辺のウォーキングでした。

コースは御池寺町での集合でスタートでした。     

次回は1月20日の第三日曜日です、干支の護王神社・蛤御門・薬師院・神泉院などです。

参加希望者は電話090-2066-5943、京都らくらくウォーキングまで。            

スタート~行願寺~法雲寺~一之船入り~端泉寺~近江屋~昼食休憩~イチヒメ神社で解散です。

御池寺町(おいけてらまち)です。
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出発です。
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行願寺(ぎょうがんじ)です。
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行願寺は、別名「革堂(こうどう)」とも呼ばれています西国三十三所観音霊場第十九番札所。
行願寺は、寛弘元(1004)年行円上人が一条北辺堂を復興して「行願寺」と名付けたのが始まりといわれています。
創建当初は一条にありましたが、戦乱や火災で幾度も焼け、場所を替えつつも再建し、宝永5(1708)年の大火後から現在の地にあります。
行願寺を創建した行円上人は、仏門に入る前は狩猟を業としていました。
ある時、山中で雌鹿を射止めたところ、その傷口から小鹿が誕生しました。
鹿は血まみれの小鹿の体を舐め愛おしんでいましたが、そのうち力尽きて死んでしまいました。
その様子を見ていた行円上人は今までの殺生を悔い、仏門に入りました。
行円上人は、死んだ雌鹿の革(皮)を常に身につけていたことから、「皮聖」「皮聖人」と呼ばれ、そのことから行願寺を「革堂」と呼ぶようになったそうです。
行円上人が肌身離さずつけていたとされる雌鹿の革衣は、現在も行願寺の「宝物館」で大切に保管されています。
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次の法雲寺行く途中です。
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法雲寺(ほううんじ)です。
法雲寺の地は 昔 太政大臣藤原兼家が正暦二年(991年)に建立した法興院の南側にあった庭園の池の跡である。
法興寺が焼失した後は、荒れ放題となり、いつしか森のようになってしまったという。
応仁元年(1467年)応仁の乱が起き、当地も合戦場となった。
永禄10年(1567年)源蓮社然譽上人が鬼を鎮め、乱れた人の心の為にとこの地に庵を結んだのが法雲寺の始まりである。
慶長9年(1604年)上人は、法雲寺再興中に遷化(せんげ)。
元和2年(1616年)二世本蓮社源譽上人により法雲寺が建立される。
これより清水庵(しみずあん)より正式に清水山洗心院法雲寺と号した。
天明8年(1788年)大火により消失。
文化15年(1819年)18世海蓮社賢譽上人により再建される。
再建中、老夫婦より清水寺と同じ姿の観世音菩薩の寄贈を受け、観音堂の並建の件が由来記にあり(福寿観世音菩薩と称す)。
又、修経者が訪れ境内中に聆乃霊石を発見し、これも並建したとあり。
以後、元治元年(1864年)の大火にもまぬがれ現在に至る。
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途中に
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一之舟入に行く途中です。
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一之船入り(いちのふないり)です。
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瑞泉寺行く途中に
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瑞泉寺に行く途中です。
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奥は三条大橋です。
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瑞泉寺(ずいせんじ)です。
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豊臣秀吉の甥で豊臣秀次(とよとみひでつぐ/三好秀次)のお墓がある場所です。
1591(天正19)年、秀吉の子鶴松が没したため,その養子となって関白職を継承ました。
秀吉に秀頼が授かったことや、秀次の乱行も世に広まり、「殺生関白」と揶揄されるようになり、秀吉との関係が険悪になったと言われています。
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此処の7階でウォーキング解散後忘年会です。
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近江屋(おうみや)です。
三条通から四条通の河原町、木屋町界わいは京都の繁華街。
幕末、地方から京を目指して来た血気盛んな若き志士たちがこの界わいに住んで。
現在の京都ホテルオークラから御池通の南側辺りまでの広大な敷地が長州屋敷。
その南には土佐藩邸もあった。
脱藩を赦免された龍馬が「御叱り」として7日間謹慎していた屋敷。
当時、高瀬川は京と伏見、大坂をつなぐ重要な水運ルートです。
深夜の入洛や逃亡のためにも高瀬川沿いに住んだのではないかと思われなす。
天誅組の吉村寅太郎の寓居と土佐勤王党の武市瑞山の寓居は隣り合ってある。
一方で佐久間象山、大村益次郎など「遭難の碑」も多い。
池田屋もこの界わいにあった。
龍馬は酢屋に下宿し海援隊の京都屯所も置いていたが、暗殺された時は河原町通蛸薬師下ルの近江屋にいた。
桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となっ て龍馬らを殺害したというものである。
同書内では「某諸侯」は京都所司代で容保の 実弟でもあった桑名藩主松平定敬であったとしている。

食事休憩に行く
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長崎チャンポン食べました
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いちひめ神社に行く途中です。
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五条大橋です。
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市比賣(いちひめ)神社です。
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女人の厄除けの神様をお祀りしている全国でも珍しい神社です。
女性の方は是非一度参拝してみて下さい。
境内にある 天之真名井の水は、古来皇室において皇子・皇女御誕生の折に産湯として用いられました。
現在も名水として知られており、多くの人が汲みに訪れ、茶会等にも用いられています。
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              最後までありがとうございました。