第133回京都らくらくウォーキング200選
19号台風にて川氾濫で未だに復興出来ない地方があります、寒い中ですが、復興まで頑張って下さい。
11月中半に入り寒さもあり北海道、東北地方は雪の便りとありますが、寒くも無くウォーク日和でした。今回11月17日(日)大原野の秋、勝持寺・大原野神社周辺巡りです。
洛西バスターミナル集合しスタートです、コースはバスターミナル出発し勝持寺(花の寺)~大原野神社(昼休憩)~正法寺~洛西バスターミナルゴール解散です。
参加者39名 資料一部参考にて
次回は12月15日(日)です、コースは八坂と清水で ・・・・集合場所は知恩院新門前9時45分です。
コースは
参加希望者は携帯電話090- 2066-5943迄、当日でも参加出来ます。
洛西バスターミナルです。
洛西バスターミナル10時出発です。
いい天気でした。
勝持寺に行く途中にありました。
勝持寺(しょうじじ)です。
その後延暦10年(791年)最澄が再興して小塩山大原寺と称し、仁寿年間(851 – 854年)千観によって再興されたという。応仁の乱で焼失し、天正年間(1573年 – 1592年)に再建された。江戸時代には桂昌院の帰依を受けた。
また境内には、平安時代末期~鎌倉時代初期のに僧侶、歌人であった、西行(さいぎょう)によって植樹された、有名な西行桜が100本近い桜があります、秋の紅葉も、素晴らしかったです。
こんな物もありました。
次の大原野神社に行く途中です。
大原野神社(おおはらのじんじゃ)1時間食事休憩です。
大原野神社の鎮座する南春日町付近は、山城地方でも最も古くから開けた所で、一万年以前の有柄尖頭器などが神社の山の手の方から発見されている。
人皇五十代桓武天皇が、延暦三年(784)都を大和の奈良から、京都向日市を中止とした長岡京(784~794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇は、しばしば大原野の地に足を運んで、鷹を放たれた。
このような催しに従った折のことである。
人皇五十代桓武天皇が、延暦三年(784)都を大和の奈良から、京都向日市を中止とした長岡京(784~794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇は、しばしば大原野の地に足を運んで、鷹を放たれた。
このような催しに従った折のことである。
その節には藤原氏の人々も多く参加していたが、それらの人々はこの地の風景の美しいのを誉でて、氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることにした。これが当社の起りである。
その後約60年を経た嘉祥三年(850)に左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇は、祖父、冬嗣の願望を想いだしてこの地に壮麗な社殿を造営された。
明治四年(1871)官幣中社に列せられ現在に至っている。
食事し後に自由大原野神社内散策です。
正法寺に行く途中です。
正法寺に入る前に説明中です。
正法寺(しょうぼうじ)です。
天平勝宝6年(754年)唐から日本へ渡来した智威大徳が禅の修行をしたことが始まりで、延暦年間(782年~806年)最澄がこの地に寺を建立したと伝えられ、弘仁年間(810年~824年)空海が入寺したといわれています。
その後応仁の乱で焼失しましたが、元和元年(1615年)に、恵雲律師、徴円律師により再興され、
元禄年間(1680年~1703年)には、徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家代々の祈願所となりました。
その後応仁の乱で焼失しましたが、元和元年(1615年)に、恵雲律師、徴円律師により再興され、
元禄年間(1680年~1703年)には、徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家代々の祈願所となりました。
鎌倉時代初期に作られた像高181cmの木造千手観音立像があります。
正面の顔以外に両耳の後に脇面を有する、「三面千手観音」と呼ばれる形式の珍しい像です。
春には八重桜の名所としてたくさんの人々が訪れます。
東山連峰を借景に象・フクロウ・獅子・カエル・ウサギ・亀の形をした石が配置されている鳥獣の石庭が見どころです。
山(東山三十六峰最南端)や醍醐山が見え、境内には、鴻池家伝来の大手水鉢があります。
東山連峰を借景に象・フクロウ・獅子・カエル・ウサギ・亀の形をした石が配置されている鳥獣の石庭が見どころです。
山(東山三十六峰最南端)や醍醐山が見え、境内には、鴻池家伝来の大手水鉢があります。
拝観する人としない人居られました、私は拝観せずです。
お寺から京都市内一望でした、手前は梅林です。
こんな花も咲いて居ました、聞くところに寄りますと皇帝ダリヤと言って居られました、
太陽に向かって咲くらしいです。
解散場所、洛西バスターミナルに向かって歩いています。
最後までありがとう御座いました。
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