第135回京都らくらくウォーキング200選 祇園町・建仁寺・六波羅蜜寺
令和2年1月も中半過ぎましたが、
皆様方は、新しい年は如何でしょうか。
令和二年の初めてのウォーキングです。
今回は祇園界隈を歩きます。
コースは祇園四条駅~辰巳神社・祇園甲部~建仁寺~恵比寿神社~祇園四条駅(昼食休憩)~宮川町~六波羅蜜寺で解散です。
今日の参加者は51名でした。 一部資料にて。
二月のらくらくウォーキングの予定は二月十六日「日」です。
コースは応仁の乱の上御霊神社・額緑寺等です。
参加希望者は電話090-2066-5943らくらくウォーキング迄、よろしくお願いします、当日でも参加OKです。
祇園四条駅です。
京阪電気鉄道京阪本線の駅。
地元の人は、当駅を含めた周辺地区を四条京阪と呼ぶことが多いです。
便利で住むには十分な条件が揃っている。
家を出ると少し歩いただけで見るものがあります。
車が混みやすいので、バス利用が便利だが渋滞が発生し時間がよめなくなるので不満
外国人観光客が増えすぎて市民生活が圧迫されてると感じるときがあります。
出発前の説明です。
辰巳大明神へ行く途中です。
辰巳大明神・祇園甲部です。
祇園の辰巳大明神(辰巳神社)は、その名のとおり、御所の辰巳の方角の守護神として祀られた。
今日では、祇園の芸妓や舞妓が芸事の上達を願う神として、また、商売繁盛の神として信仰されている。
辰巳大明神の横の巽橋には狸が住んでいて、橋を渡る人を騙して川の中を渡らせるという悪戯をしていたため、困った人々が狸を祀る祠を建てたところ悪戯が収まったのだという。
辰巳とは南東の方角を指す言葉で、はじめは御所の南東を守る鎮守社として建立されました。
時代を下るにつれて祇園で働く舞妓や芸妓の信仰を集めるようになり、今では祇園を象徴する場所の一つになっています。
祇園甲部(ぎおんこうぶ)は江戸時代初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代・板倉重宗により、茶点て女を置くことが許可され、八坂神社(祇園社)門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。1872年(明治5年)お茶屋一力亭9代目・杉浦治郎右衛門や初代京都府知事・長谷信篤などにより、祇園甲部歌舞会が設立されました。
また同年には八坂女紅場(やさかにょこうば)が創設され、1951年(昭和26年)に学校法人になり、舞妓・芸妓を養成する祇園女子技芸学校(ぎおんじょしぎげいがっこう)を運営しています。
なお祇園甲部の舞踊は京舞井上流、春には都をどり、秋には温習会を開催しています。
祇園甲部は現在五花街の中で最大の花街と言われています。
祇園甲部は現在五花街の中で最大の花街と言われています。
(1881年(明治14年)祇園東が祇園甲部から分離・独立しました。)
祇園東・甲部です。
建仁寺へ行く途中です。
建仁寺です。
臨済宗建仁寺派大本山である建仁寺。
建仁寺は建仁2年(1202年)、将軍源頼家が土地を寄進し、栄西禅師を開山として建立されました。
京都五山の第3位に列せられ、京都最古の禅寺として大いに栄えましたが戦乱などにより荒廃してしまいます。
天正年間に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築して復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建されました。
臨済宗建仁寺派の大本山であり、高台寺や八坂の塔の法観寺も建仁寺の末寺にあたります。祇園。花見小路を歩いて辿り着く
京都五山の第3位に列せられ、京都最古の禅寺として大いに栄えましたが戦乱などにより荒廃してしまいます。
天正年間に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築して復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建されました。
臨済宗建仁寺派の大本山であり、高台寺や八坂の塔の法観寺も建仁寺の末寺にあたります。祇園。花見小路を歩いて辿り着く
と建仁寺です。祇園から歩けるのでアクセスはいいです、バスでも電車でも行けます。
恵比寿神社です。
建立:1202年(建仁2年)大和大路四条下るにある、京都ゑびす神社
次の宮川町へ 行く途中です。
京都南座です。
宮川町です。
宮川町は、建仁寺のすぐ近く、京阪祇園四条駅と五条駅の中間にある町です。
祇園と並ぶ京都を代表する花街として知られ、日が暮れると舞妓や芸妓が通りを行きかいます。
町の一部が祇園町南歴史的景観保全修景地区に指定されており、京町屋が立ち並ぶ風情ある町並みが観光客に人気です。
京都の春を華やかに彩る宮川町芸舞妓総出演の「京おどり」。
毎年4月に16日間、宮川町歌舞練場で上演しています。現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には『京おどり』が上演される、舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上の大きい数を誇っている、舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流である。

六波羅蜜寺に行く手前にこんなところがありました。
450年ほど前、毎晩毎晩飴を買いに来る女がいたそうで、流石に毎夜のことで店主が不思議に思い女の後をつけたら女は墓地にスーッと消えていった女が消えた墓から赤ん坊の声が聞こえて来た。住職に事情を話し墓を掘り起こすとそこには赤ん坊が飴を持って泣いていた。傍らには、紛れもなく飴を買いに来た女の遺体がそこにあったそうだ
平清盛や平重盛といった平家一門の屋敷が5,200余り並んでいたそうです。
その後、平家の没落の際に、戦火によって本堂以外の建物が焼失。
時代や将軍が変わっていく中でも、再建復興が進められ、火災が起きるたびに修復されました。
重要文化財にも選ばれている本堂は、1363年に修復されたものを1969年に解体修理したものです。
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